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ベートーヴェンの生き方がすごい。

私はクラシック音楽をよく聴く。

特にベートーヴェンの音楽が好きだ。

 

ベートーヴェン…音楽家として天賦の才能を持ちながら、徐々に耳が聞こえなくなるという病を抱えた悲劇の人。

 

ベートーヴェンの耳に異常が生じたのは30歳ころからと言われており、40歳の頃には全聾となったようである。

 

しかし、ベートーヴェンは難聴により音楽活動を退化させるどころか、交響曲ピアノソナタ弦楽四重奏など、素晴らしい音楽を生み出し続けた。

交響曲第5番「運命」も、耳の異常が深刻化してきた時期に創作された楽曲である。

余りに有名な冒頭の出だしから、おそらくクラシックに興味のない人でも、一度は聴いたことのある交響曲であろう。


ベートーヴェン - 交響曲 第5番 ハ短調 Op.67《運命》 カラヤン ベルリンフィル

 

私はベートーヴェンという人物について、人生の途中で聴力を失ったというエピソードしか知らず、しかし音楽は素晴らしいものであるという以外に特に関心を持ってこなかった。

 

しかし、ふつうに考えれば音楽家にとって聴力というのはまさしく「命」そのものであって、しかもその聴力が徐々に失われていくというのは、絶望、恐怖、苦悩といった言葉では簡単に表現できない苦しみをベートーヴェンに与えたのではないだろうか。

実際にベートーヴェンは32歳のときに遺書を書くほど追い詰められていた(ハイリゲンシュタットの遺書)。

 

結局、ベートーヴェンは自ら命を絶つという選択はしなかった。

むしろ聴力を失ってからも、ベートーヴェンは聴力を失う前以上に積極的に作曲活動を続けた。その功績は今でもクラシック音楽の歴史の中で燦然たる輝きを放っているし、これからのクラシック音楽において最も重要な作曲家として存在し続けるだろう。

 

私が感動を覚えるのは、特にベートーヴェン音楽の代表である交響曲のほとんどの最終楽章にみられるように、人に勇気を与えるかのような勇敢ではつらつとした音楽になっている点である。たとえば、先ほどの「運命」の最終楽章は、聴力を失うという絶望の中にある人間が造ったとは思えない勇気ある音楽になっている(先ほどの動画の21分頃から聴いてほしい。有名なダダダダーンとは全く違う音楽が流れるが、これは運命の最終楽章である)。

なぜベートーヴェンは、聴力を失うという悲劇の中にありながらも、人を勇気づけるような音楽を生み出し続けることができたのであろうか?ベートーヴェン自身はもう自分の生み出した音楽を聴くことはできないのに。

私がもし作曲家の立場であれば、聴力を失った以上、もう自分が音楽を聴くことはできないのであるから、音楽から離れるという選択をするのではないかと思う。

それが音楽家として成功をおさめ、天賦の才能に恵まれていたベートーヴェンの体に難聴が起きたのであるから、その悲しみや苦しみは想像できないほど辛かったに違いない。現にベートーヴェンは自ら命を絶つ寸前にまで苦しんでいた。

 

ベートーヴェンが作曲を続けた理由。

一つ目に、ベートーヴェンは他者への優しさや愛情に満ちあふれた人であったのだと思う。

自分が悲劇に見舞われたとしても、そのままそれを表現するのではなく、あくまで聴く人の立場に立ってみんなが聴きたい音楽を作曲しようとしたのではないだろうか。自分のことしか考えないのであれば、もう音楽が聴けないのであるから、音楽をやめるか、あるいはその悲しみや苦しみをそのまま表現すればよかったであろう。

しかしベートーヴェンはそうではなかった。あくまで音楽を聴く人が喜ぶように、勇気が出るように、悲しみから抜けられるように、そういった他者への想いを音楽に込めたのだと思う。

難聴という音楽家としては致命的なハンディがありながらも、人を勇気づける音楽を作曲したベートーヴェンは、他者への優しさや愛情に満ちていたに違いない。

ベートーヴェンは甥(カール)との間にややこしい親族問題を抱えていたが、それもベートーヴェンの愛情が行き過ぎた結果だと思う。ベートーヴェンは生涯独身であったが、おそらく生活面では、ありふれる優しさや愛情の表現があまり得意ではなかったのだ。

 

二つ目に、ベートーヴェンは未来を見通していた。

そもそも、作曲活動は知能指数が高くなければ不可能である。

特に、交響曲といった多くの楽器を使用した楽曲の作曲には、想像力、論理的思考力、表現力といった多種多様な思考能力が要求される。

ベートーヴェンが作曲した音楽の完成度をみれば、極めて優れた知能指数を有していたことは間違いない。また、ベートーヴェンは音楽だけでなく、哲学や天文学にも精通していたと言われる。

そんな高い知脳指数を有するベートーヴェンは、おそらく遠い未来のことまで考えていたのではないだろうか。つまり、死後の世界である(ベートーヴェンが死んだ後に取り残されたこの世界のこと)。

人は死んだらそれで終わりである。しかし、世界は続く。

ベートーヴェンは、難聴で死も考えるほど精神的に追い詰められたが、自分よりもむしろ世界のことをも考えたのであろう。

そして、ベートーヴェンは自分が生きた時代だけでなく、その後も連綿と続くこの世界を音楽で感動させ、そして勇気づけたいと願ったのではないだろうか。

だからこそ、自死を思いとどまり、死がベートーヴェンをこの世から連れ去るまでは、生きて作曲活動を続けたのだと思う。その間、ベートーヴェンが残した音楽は数え切れず、その全てが傑作である。もしベートーヴェンが32歳でこの世を去っていたら、世界で聴かれることになるベートーヴェンは半減したであろう(質的な意味でも量的な意味でも)。

そして、今でも、私たちはベートーヴェンの音楽を聴いて感動することができる。勇気づけられる。

これからも、人類が生き続ける限り、ベートーヴェンの音楽は聴き続けられるだろう。

難聴で苦しんでいたベートーヴェンは、このような未来に活路を見いだしたのではないだろうか?音楽を聴けない今は辛い。

だが、人類の歴史は続く。その中で、自分の努力が報われることに意味を見いだし、ベートーヴェンは作曲を続けたのだろう。

 

三つ目に、ベートーヴェンは強さを身につけたからである。

人は弱い生き物だと思う。ちょっとしたことですぐ落ち込む。人と比べて嫉妬する。少しでも得をしようとずるをする。衰退する弁護士業界に愚痴を言う(笑)。自分にはないものを求めて羨ましがる。

作曲家が聴力を失うというのは、まさに命を失うことに等しいと思う。作曲した音楽が聴けないということは、たとえば母親が産んだ子どもを育てられないようなものだ。マラソン選手が足を失うようなものだ。絵描きが視力を失うようなものだ。

そのような困難に直面したとき、私はその困難と向き合うことができるだろうか?

ベートーヴェンももちろん私たちと同じ「人」である。

人並みの弱さで難聴に苦しみそして恐れ、運命を恨んだこともあったろう。

 それでもなお、ベートーヴェンは音楽を捨てることはせず、むしろそれまで以上の創作意欲で作曲を続けた。

ベートーヴェンが困難を乗り越えることができたのは、困難と正面から向き合い、自死を考えるほど追い詰められたが、それでも音楽を続けようと決意する中で、並々ならぬ強さや精神力を身につけたからであろう。

つまり、難聴も後天的に生じたものであれば、その中で音楽を続けることができた強さも後天的に身につけたものだと思う。もともとベートーヴェンが強かったのではなく、自らの困難と向き合うことではじめて、人としての強さを身につけたのだと思う。

そして困難が起きたとき、困難と向き合うか、逃げるかは自分が選択することができる。ただ、困難が大きければ大きいほど、困難を乗り越える可能性や選択肢は少なくなると思う。

作曲家としての命を奪いかねない困難を乗り越えたベートーヴェンの強さ。

その音楽だけでなく、ベートーヴェンの生き方すらも、いま、恵まれた世界で生きる私たちに勇気を与えてくれると思う。

 

最後に、ベートーヴェン楽聖と崇められ、歴史上もっとも優れた作曲家として素晴らしい音楽を残すことができたのは、ベートーヴェンが人生で最悪と最高を経験したからだと思う。

誰もが人生で良いこと、悪いことを経験する。

しかし、作曲家として聴力を失うというベートーヴェンの経験は、客観的にみて最悪の出来事であっただろう。私がそのような困難に直面したとき、ベートーヴェンと同じ生き方ができるとは思えない。

一方で、人生には良いこと、素晴らしいこともたくさんある。ベートーヴェンは恋多き人物であったようだ。また、先ほど述べたが、ベートーヴェンは非常に教養があった。

ベートーヴェンの音楽は表現が豊かで音が色鮮やかに奏でられる。聴くことで希望や勇気、絶望や悲しみを一度に体験することができる。

致命的なハンディを負いながらも、ベートーヴェンが他の作曲家にはなしえない音楽を作曲できたのは、作曲家として最悪の状態を乗り越えながら、それでも人生において最高の出来事をたくさん経験してきたからだと思う。

そしてベートーヴェンの人生は、人は致命的な困難に直面したとしても、人生がそこで終わるのではなく、生き方次第でそれまで以上に素晴らしいものにすることができるということを教えてくれる。

 

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ベートーヴェンが遺書を書いたというハイリゲンシュタット。ベートーヴェンの散歩道。