嘘とサンクション(制裁)と日本人の民度

民事訴訟は嘘つき放題。」

私が司法研修所の民事裁判の講義で聞いた言葉です。

司法研修所とは司法試験の合格者が弁護士、裁判官、検察官になるために研修です。

そこで民事裁判と刑事裁判、そして法曹三者のそれぞれの仕事の基礎を学ぶのです。

 

そう、民事裁判の教官(裁判官)が言うとおり、日本の民事裁判では嘘つき放題で、原告と被告が好き放題に嘘を言い合う姿が常態化しています。

弁護士をしていると、よくもまあ平気で嘘を言えるよなと思うこともありますし、弁護士倫理を理解していない弁護士だと、勝つためにクライアントに嘘を言うよう指示する者もいるくらいです。

もちろん弁護士の中には清廉潔白を第一主義とし、たとえクライアントに有利になるものであっても嘘は絶対に許さない、という人もいるかも知れません。

が、私はそういう人は見たことがありませんし、私も含めた弁護士は嘘に非常に寛容(鈍感)だと思います。 

 

なぜここまで民事裁判で嘘が蔓延しているのか。

それは、①日本の民事裁判において、虚偽に対するサンクションが制度として全く運用されていないこと、そして、②日本人の民度が全体として低くなっているからだと思います。

 

①については、日本の民事裁判制度における制度・運用の欠陥です。

嘘とは法律上は「偽証」といい、裁判所の証言で嘘を述べると、訴訟当事者(原告・被告)の場合は罰金10万円以下の科料、証人が嘘を述べた場合には偽証罪(3ヶ月以上10年以下の懲役)が科せられる可能性があります。

当事者と証人におけるサンクションの違いは、当事者は自分に有利になるために証言を変えることもそれなりにやむを得ないと考えられるからです。一方で証人は一般的には裁判に利害関係がないので、きちんと事実をありのままに話さなければならないというわけです。

たとえば、最近でいえば籠池理事長が国会での証人喚問の際に、「刑事訴追を受ける恐れがあるから証言を拒否する。」と証言することが許されるのと同じです。自分が不利になるおそれがある場合や自分が有利になる場合には、正直な証言は期待できないであろうという趣旨に基づいているのです。

 

しかし、科料にせよ偽証罪にせよ、「民事裁判で」実際に嘘をついても、これらのサンクションが実際に機能することはほとんどありません。

法律で定められたサンクションが機能しないから、証言者は自分に有利になるよう(不利にならないよう)に容易に嘘をつくのです。

 

次に、日本人の民度の低下があると思います。

武士道(新渡戸稲造著)に記されているように、昔の日本人は正直を美徳のひとつとし、嘘や裏切りはやってはいけないことという以上に格好悪いものとして考えていました。昔の本を読めば、特定の宗教への信仰がなくとも、民族全体の人格や道徳観は高かったであろうことがうかがわれます。

 

しかし、今の日本人のうち、どれほどが嘘がいけないという倫理観を持っているでしょうか?

政治家や官僚は平気で嘘をつきますし、企業の隠蔽や不祥事は日常茶飯事になっています。

子どもの模範となるべき大人が当然のように嘘をついていれば、その教育を受ける子どもがどのように育つかは想像に難くありません。

嘘に対する違和感がないから、お金のために平気で嘘をつけるのです。

 

裁判の公正さを保ち、今の嘘つき放題の民事裁判を是正しようとするなら、②日本人の民度の改善を期待することはできないでしょうから、まずは①嘘に対するサンクションを実効性のあるものにしていくことが必要だと思います。

 

※なお、偽証罪が実際に刑事裁判になるのは、刑事裁判において「検察側の証人」が嘘をついた場合です。

日本の刑事裁判において偽証罪を犯罪として起訴するかどうかは検察官の専権です。

そのため、検察官は「現実的な」偽証罪のプレッシャーのもとで証人に証言をさせるのです。

民事裁判では「現実的な」偽証罪のプレッシャーがないから嘘つき放題なのです。

他方で、本来、被告人に有利な証言をするべき「弁護側の証人」が被告人に不利となる偽証をした場合に罰せられることはまずありません。被告人に不利な偽証ということは、検察側に有利になるからです。

このように、刑事裁判においても偽証罪が検察に恣意的に運用されていることも、民事裁判だけでなく日本の裁判制度全体の欠陥として問題視されなければならないでしょう。

【チャタレー事件】暇な女子大生のツイートは刑法175条に違反しないのか?

【事件の内容】

イギリスの作家D・H・ローレンスの作品『チャタレー夫人の恋人』を日本語に訳した作家伊藤整と、版元の小山書店社長小山久二郎に対して刑法第175条のわいせつ物頒布罪が問われた事件です。この著作には露骨な性描写が含まれていました。翻訳者の伊藤整と出版社社長は当該作品にはわいせつな描写があることを知りながら共謀して販売したとして、刑法第175条(わいせつ物頒布等罪)で起訴されました。

この裁判では、わいせつ物頒布等を禁じた刑法175条が表現の自由を保障した憲法21条に違反するかどうかが争われたのです。

 

※参考条文

刑法175条:わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者は、2年以下の懲役又は250万円以下の罰金若しくは科料に処し、又は懲役及び罰金を併科する。電気通信の送信によりわいせつな電磁的記録その他の記録を頒布した者も、同様とする。

 

判例最高裁昭和32年3月13日判決)】

第一審(東京地裁)は出版社社長を罰金刑の有罪、翻訳者を無罪としましたが、控訴審(東京高裁)は出版社社長のみならず、翻訳者も罰金刑の有罪としました。

これを受けて、被告両名が最高裁に上告し、刑法175条は表現の自由を保障した憲法21条に違反するとして無罪を争いました。

これに対して最高裁は、

性的秩序を守り、最少限度の性道徳を維持することが公共の福祉の内容をなすことについて疑問の余地がないのであるから、本件訳書を猥褻文書と認めその出版を公共の福祉に違反するものとなした原判決は正当である。

として上告を棄却しました。

 

【オワ弁判例解説】

わいせつ文書を頒布すると、刑法175条で処罰されることになります。

わいせつな表現も憲法で保障されるのですから、刑法で処罰するのは表現の自由の侵害ではないか、という論点に、最高裁は性的秩序を守り社会の健全な性道徳を維持するために処罰することは憲法には違反しない、と判断したのです。

みんなが「ちんこ、まんこ、せっくす」と連呼する社会は健全ではないから、これを禁止する刑法175条も表現の自由には違反しない、というわけです。

しかし、いまこのタブーに挑戦している強者がツイッターに出現しています。

twitter.com

「膣ドカタ」、「ちんぽの食べログ」、「若いまんこで経済をまわせ」

…自己紹介文から既にわいせつ表現満載ですw

そのツイート内容は「フェラ」「まんこ」「膣キュン」などわいせつ表現のオンパレード。真面目な最高裁の裁判官は現代の女子大生の貞操観念崩壊に絶望でしょう。

そんな彼女、ツイッターでは「暇女」と呼ばれて人気を博し、既にフォロワーは10万人を超えています。唯一、セックスのことを「優勝」と表現している点は、彼女なりの社会への配慮なのでしょうかw

 

それでは、暇女のツイッターは刑法175条に違反しないのか?

弁護士として真面目な回答をすると、刑法175条に違反している可能性はあると思います。

暇女のツイートは性器を露骨に表現してエリート達との性行為の様子をつづっている上、さすが食べログだけありその量もハンパありません。フォロワーには未成年の若者も多いようであり、健全な性道徳教育を害するという点で社会に与える悪影響も少なくないでしょう。そしてツイッターによるツイートも「電気通信の送信によるわいせつな電磁的記録の頒布」に該当します。

 

しかし、暇女のツイッターにおけるエリートちんぽへの執着は、単にわいせつ表現を超えたすがすがしさと飽くなき探求心を感じます。

そう、そこにはエリートちんぽへの信仰すら感じられるのです。

古来より、我が日本では多くの性器崇拝の慣習がありました。

生殖器崇拝 - Wikipedia

そして、暇女のエリートちんぽへの執着は、もはやエリート性器崇拝の領域に達していると言っても過言ではありません。

信教の自由憲法20条で保障された基本的人権の一つです。

もし暇女のツイッターが刑法175条で禁圧されるとすれば、表現の自由のみならずエリート性器崇拝という信教の自由まで侵害されることになります。

仮に暇女が刑法175条で起訴された場合、次こそ最高裁違憲判断を勝ち取ることができるのではないかと思いますw

 

というわけで、暇女にはこれまで通り食べログを続けていってほしいと願っています。

 

【まとめ】

判例の重要度:★★(チャタレー事件は法学部学生であれば必ず読み込んだ卑猥判例

暇女の信仰心:★★★★★

【勘違い騎士道事件】勘違いで傷害致死罪は軽くなるのか?

【事件の内容】

1981年7月5日午後10時20分頃、イギリス人A(在日歴8年)は、夜間帰宅途中、路上で泥酔した女性Bとこれをなだめていた男性Cとがもみ合ううち、Bが倉庫の鉄製シャッターにぶつかって尻餅をついたのを目撃しました。

その際、女性Bが「ヘルプミー、ヘルプミー」などと冗談で叫んだため、AはBがCに暴行を受けているものと誤解したのです。

Aは両者の間に割って入ってBを助け起こそうとし、ついでCのほうに振り向き両手を差し出しました。

Cは、突然の出来事でAが自分に襲い掛かってくるものと思い、防御するために自分の手を握って胸の前あたりに上げたのです。

これを見たAは、Cがボクシングファイティングポーズをとり自分に襲い掛かってくるものと誤解し、自分とBを護ろうと考え、Cの顔面めがけて空手技である回し蹴りをして右顔面付近に命中させました。Aは空手3段の腕前の持ち主だったのです。

Aの回し蹴りによってCは転倒して頭蓋骨骨折などの重傷を負って、8日後にその障害に起因する脳硬膜外出血および脳挫滅によって死亡してしまいました。

 

判例最高裁昭和42年3月26日決定)】

Aは傷害致死罪で起訴されましたが、第一審(東京地裁)は無罪、第二審(東京高裁)は有罪としたものの、減刑して懲役1年6月執行猶予3年の判決を言い渡しました。

最高裁判所は、「本件回し蹴り行為は、被告人が誤信したC(男性)による急迫不正の侵害に対する防衛手段として相当性を逸脱していることが明らかである」として、傷害致死罪の成立を認めた上で刑法36条2項による減軽を認めた原審の判断を支持しました。

 

【オワ弁判例解説】

Cさんかわいそすぎるだろこれ!って事件です。

CはBを介抱していただけで何も悪くないのに、空手三段のイギリス人の回し蹴りをくらって不運にも死んでいきました。一方、加害者のAは勘違いにより減刑されて実刑にもならないという不条理ww

Aのイギリス人としての騎士道精神・・・勘違いもいいとこです。どうやら、Aは日本に8年間住んでいましたが、日本語の能力は不十分だったようです。

とはいえ、何の落ち度もないのに回し蹴りをくらって殺された方はたまったものじゃありません。

では、なぜこの事件においてAが減刑されるかというと、勘違いであっても自分とBさんを護るために回し蹴りをした以上、普通の傷害行為と比べてAを責めることはできないよね、という理屈なのです。

 

刑法学では、司法試験にも出題される『誤想過剰防衛(=勘違い+正当防衛の意思による犯罪)』と呼ばれる有名な論点の判例でした。

 

【まとめ】 

判例の重要度:★★(誤想過剰防衛の事案は実務上ほとんどない)

被害者Cに対する同情度:★★★★★

【尊属殺人規定違憲判決】レイプ魔の父親を殺した女性は死刑か無期懲役かどちらか(だった)。

昔の刑法では尊属殺人(親殺し)は普通の殺人罪に比べて特に重く罰せられていました。親殺しは「死刑か無期懲役」しかなかったのです。

 

しかし、ある事件がきっかけで、尊属殺人重罰規定は憲法違反と判断されました。

その事件の内容が凄惨すぎます。

 

【事件の内容】

栃木県矢板市のある家庭で、父親が自分の娘Aをレイプしました(当時14歳)。

以降も、父親は継続的に肉体関係を強要し、Aは17歳の時に父親の子どもを産みます。その後も4人の子どもを産み、さらに6度の妊娠中絶手術を行いました。

Aはずっと父親との肉体関係を強要され続けましたが、就職先の会社員と恋仲になり、結婚の約束をしたところ、これを知った父親が激怒。10日間にわたってAは父親に監禁されたのですが、耐えきれなくなったAはついに父親を殺害。

なお、ここまでなってもAが父親のもとから逃げ出さなかったのは、自分が盾になって妹を父親性的虐待から護るためでした。

 

判例(昭和48年4月4日判決)】

このような事件に対しても、当時の刑法200条(尊属殺人規定)を適用して死刑か無期懲役を科すほかなく、減刑しても執行猶予をつけることはできませんでした。

最高裁判所は、この事件の裁判において、尊属殺人の刑罰として死刑か無期懲役しか選択できないのは重すぎるとして、刑法200条は憲法14条(法の下の平等)に違反するものとして憲法違反の判断をしました。

憲法とは国の最高規範であって、これに違反する法律は効力を持ちません。

そのため、この事件では刑法200条ではなく、普通殺人を定めた刑法199条で刑罰が決められたのです。

結論は「懲役2年6月執行猶予3年」でした。

 

【オワ弁判例解説】

それにしてもこの事件の親父は鬼畜過ぎます。

娘に対してレイプを繰り返し、5人も出産させ、6回も中絶手術を受けさせるとは正気の沙汰ではありません。

一方のAは妹を護るために家から逃げ出さなかったとか泣けてきます。

ずっと父親から性的虐待を受けてきたAとしては、父親を殺すことしか自分が助かる方法はなかったと考え、殺害に及んでしまうのも無理はありません。父親側にも大きな落ち度があります。

当時の裁判官の価値判断としても、Aを実刑とするのは重すぎると考えたのでしょう。

実は、それまでも刑法200条が憲法違反かどうかは何度も争われてきたのですが、最高裁はずっと合憲の判断をしてきました。

そのため、今回の事件を契機として刑法200条が違憲であるという判断を行い、結果としてAを執行猶予とする結論をとったのです。

なお、現在は刑法200条は存在せず、親殺しも殺人罪(刑法199条)で裁かれることとなっています。

人を殺すことは重大犯罪です。

が、その背景をみると複雑な人間関係が潜んでいます。

刑罰は法律に従いますが、法律を超えるべき事件もあるのです。

 

【まとめ】

判例の重要度:★★★★★(刑法200条が削除された)

被害者(父親)の鬼畜度:★★★★★

ベートーヴェンの生き方がすごい。

私はクラシック音楽をよく聴く。

特にベートーヴェンの音楽が好きだ。

 

ベートーヴェン…音楽家として天賦の才能を持ちながら、徐々に耳が聞こえなくなるという病を抱えた悲劇の人。

 

ベートーヴェンの耳に異常が生じたのは30歳ころからと言われており、40歳の頃には全聾となったようである。

 

しかし、ベートーヴェンは難聴により音楽活動を退化させるどころか、交響曲ピアノソナタ弦楽四重奏など、素晴らしい音楽を生み出し続けた。

交響曲第5番「運命」も、耳の異常が深刻化してきた時期に創作された楽曲である。

余りに有名な冒頭の出だしから、おそらくクラシックに興味のない人でも、一度は聴いたことのある交響曲であろう。


ベートーヴェン - 交響曲 第5番 ハ短調 Op.67《運命》 カラヤン ベルリンフィル

 

私はベートーヴェンという人物について、人生の途中で聴力を失ったというエピソードしか知らず、しかし音楽は素晴らしいものであるという以外に特に関心を持ってこなかった。

 

しかし、ふつうに考えれば音楽家にとって聴力というのはまさしく「命」そのものであって、しかもその聴力が徐々に失われていくというのは、絶望、恐怖、苦悩といった言葉では簡単に表現できない苦しみをベートーヴェンに与えたのではないだろうか。

実際にベートーヴェンは32歳のときに遺書を書くほど追い詰められていた(ハイリゲンシュタットの遺書)。

 

結局、ベートーヴェンは自ら命を絶つという選択はしなかった。

むしろ聴力を失ってからも、ベートーヴェンは聴力を失う前以上に積極的に作曲活動を続けた。その功績は今でもクラシック音楽の歴史の中で燦然たる輝きを放っているし、これからのクラシック音楽において最も重要な作曲家として存在し続けるだろう。

 

私が感動を覚えるのは、特にベートーヴェン音楽の代表である交響曲のほとんどの最終楽章にみられるように、人に勇気を与えるかのような勇敢ではつらつとした音楽になっている点である。たとえば、先ほどの「運命」の最終楽章は、聴力を失うという絶望の中にある人間が造ったとは思えない勇気ある音楽になっている(先ほどの動画の21分頃から聴いてほしい。有名なダダダダーンとは全く違う音楽が流れるが、これは運命の最終楽章である)。

なぜベートーヴェンは、聴力を失うという悲劇の中にありながらも、人を勇気づけるような音楽を生み出し続けることができたのであろうか?ベートーヴェン自身はもう自分の生み出した音楽を聴くことはできないのに。

私がもし作曲家の立場であれば、聴力を失った以上、もう自分が音楽を聴くことはできないのであるから、音楽から離れるという選択をするのではないかと思う。

それが音楽家として成功をおさめ、天賦の才能に恵まれていたベートーヴェンの体に難聴が起きたのであるから、その悲しみや苦しみは想像できないほど辛かったに違いない。現にベートーヴェンは自ら命を絶つ寸前にまで苦しんでいた。

 

ベートーヴェンが作曲を続けた理由。

一つ目に、ベートーヴェンは他者への優しさや愛情に満ちあふれた人であったのだと思う。

自分が悲劇に見舞われたとしても、そのままそれを表現するのではなく、あくまで聴く人の立場に立ってみんなが聴きたい音楽を作曲しようとしたのではないだろうか。自分のことしか考えないのであれば、もう音楽が聴けないのであるから、音楽をやめるか、あるいはその悲しみや苦しみをそのまま表現すればよかったであろう。

しかしベートーヴェンはそうではなかった。あくまで音楽を聴く人が喜ぶように、勇気が出るように、悲しみから抜けられるように、そういった他者への想いを音楽に込めたのだと思う。

難聴という音楽家としては致命的なハンディがありながらも、人を勇気づける音楽を作曲したベートーヴェンは、他者への優しさや愛情に満ちていたに違いない。

ベートーヴェンは甥(カール)との間にややこしい親族問題を抱えていたが、それもベートーヴェンの愛情が行き過ぎた結果だと思う。ベートーヴェンは生涯独身であったが、おそらく生活面では、ありふれる優しさや愛情の表現があまり得意ではなかったのだ。

 

二つ目に、ベートーヴェンは未来を見通していた。

そもそも、作曲活動は知能指数が高くなければ不可能である。

特に、交響曲といった多くの楽器を使用した楽曲の作曲には、想像力、論理的思考力、表現力といった多種多様な思考能力が要求される。

ベートーヴェンが作曲した音楽の完成度をみれば、極めて優れた知能指数を有していたことは間違いない。また、ベートーヴェンは音楽だけでなく、哲学や天文学にも精通していたと言われる。

そんな高い知脳指数を有するベートーヴェンは、おそらく遠い未来のことまで考えていたのではないだろうか。つまり、死後の世界である(ベートーヴェンが死んだ後に取り残されたこの世界のこと)。

人は死んだらそれで終わりである。しかし、世界は続く。

ベートーヴェンは、難聴で死も考えるほど精神的に追い詰められたが、自分よりもむしろ世界のことをも考えたのであろう。

そして、ベートーヴェンは自分が生きた時代だけでなく、その後も連綿と続くこの世界を音楽で感動させ、そして勇気づけたいと願ったのではないだろうか。

だからこそ、自死を思いとどまり、死がベートーヴェンをこの世から連れ去るまでは、生きて作曲活動を続けたのだと思う。その間、ベートーヴェンが残した音楽は数え切れず、その全てが傑作である。もしベートーヴェンが32歳でこの世を去っていたら、世界で聴かれることになるベートーヴェンは半減したであろう(質的な意味でも量的な意味でも)。

そして、今でも、私たちはベートーヴェンの音楽を聴いて感動することができる。勇気づけられる。

これからも、人類が生き続ける限り、ベートーヴェンの音楽は聴き続けられるだろう。

難聴で苦しんでいたベートーヴェンは、このような未来に活路を見いだしたのではないだろうか?音楽を聴けない今は辛い。

だが、人類の歴史は続く。その中で、自分の努力が報われることに意味を見いだし、ベートーヴェンは作曲を続けたのだろう。

 

三つ目に、ベートーヴェンは強さを身につけたからである。

人は弱い生き物だと思う。ちょっとしたことですぐ落ち込む。人と比べて嫉妬する。少しでも得をしようとずるをする。衰退する弁護士業界に愚痴を言う(笑)。自分にはないものを求めて羨ましがる。

作曲家が聴力を失うというのは、まさに命を失うことに等しいと思う。作曲した音楽が聴けないということは、たとえば母親が産んだ子どもを育てられないようなものだ。マラソン選手が足を失うようなものだ。絵描きが視力を失うようなものだ。

そのような困難に直面したとき、私はその困難と向き合うことができるだろうか?

ベートーヴェンももちろん私たちと同じ「人」である。

人並みの弱さで難聴に苦しみそして恐れ、運命を恨んだこともあったろう。

 それでもなお、ベートーヴェンは音楽を捨てることはせず、むしろそれまで以上の創作意欲で作曲を続けた。

ベートーヴェンが困難を乗り越えることができたのは、困難と正面から向き合い、自死を考えるほど追い詰められたが、それでも音楽を続けようと決意する中で、並々ならぬ強さや精神力を身につけたからであろう。

つまり、難聴も後天的に生じたものであれば、その中で音楽を続けることができた強さも後天的に身につけたものだと思う。もともとベートーヴェンが強かったのではなく、自らの困難と向き合うことではじめて、人としての強さを身につけたのだと思う。

そして困難が起きたとき、困難と向き合うか、逃げるかは自分が選択することができる。ただ、困難が大きければ大きいほど、困難を乗り越える可能性や選択肢は少なくなると思う。

作曲家としての命を奪いかねない困難を乗り越えたベートーヴェンの強さ。

その音楽だけでなく、ベートーヴェンの生き方すらも、いま、恵まれた世界で生きる私たちに勇気を与えてくれると思う。

 

最後に、ベートーヴェン楽聖と崇められ、歴史上もっとも優れた作曲家として素晴らしい音楽を残すことができたのは、ベートーヴェンが人生で最悪と最高を経験したからだと思う。

誰もが人生で良いこと、悪いことを経験する。

しかし、作曲家として聴力を失うというベートーヴェンの経験は、客観的にみて最悪の出来事であっただろう。私がそのような困難に直面したとき、ベートーヴェンと同じ生き方ができるとは思えない。

一方で、人生には良いこと、素晴らしいこともたくさんある。ベートーヴェンは恋多き人物であったようだ。また、先ほど述べたが、ベートーヴェンは非常に教養があった。

ベートーヴェンの音楽は表現が豊かで音が色鮮やかに奏でられる。聴くことで希望や勇気、絶望や悲しみを一度に体験することができる。

致命的なハンディを負いながらも、ベートーヴェンが他の作曲家にはなしえない音楽を作曲できたのは、作曲家として最悪の状態を乗り越えながら、それでも人生において最高の出来事をたくさん経験してきたからだと思う。

そしてベートーヴェンの人生は、人は致命的な困難に直面したとしても、人生がそこで終わるのではなく、生き方次第でそれまで以上に素晴らしいものにすることができるということを教えてくれる。

 

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ベートーヴェンが遺書を書いたというハイリゲンシュタット。ベートーヴェンの散歩道。

刑罰の意味。【冨田真由さんの事件で懲役14年の判決は軽すぎるのか?】

先日、冨田真由さんの殺人未遂に対する裁判員裁判の判決が言い渡されました。

 

「懲役14年(検察求刑17年)。」

 

ネットをはじめとして、世間では刑罰が軽すぎるという論調が主流のようです。

 

一方で、検察求刑が17年であることも含め、刑事事件を手がける弁護士としては殺人未遂の刑罰としては重い印象を受けるのが一般的だと思います。

刑事事件の量刑(有罪を前提として刑罰を決めること)は、他の類似事件との公平性が極めて重視されます。

弁護士という職業柄、どうしても過去の同種事件(被害者一名の殺人未遂事件)と比べてしまいますが、懲役14年というのは殺人既遂の量刑としてもおかしくないからです。

そして、殺人未遂と殺人既遂では、その量刑に歴然とした差があるのです。

 

この事件は、アイドル活動をしていた女子大生(冨田さん)が一方的に好意を寄せていた男から34箇所も刃物で刺されたが一命を取り留めた、というものです。

冨田さんには今も顔にも体にも傷が残り、もちろん心にも決して消えることのない傷が残ったのでしょう。

何の落ち度もない若い女の子をめった刺しにするという凶行は、誰がどうみても許されるものではありません。

法廷で冨田さんは、加害者はまた同じことをすると思う、二度と刑務所から出てほしくないと述べていたようですが、被害者として当然の気持ちだと思います。そして、この事件を報道で知ったほとんどの方も、加害者は重く罰せられなければならないと考えるのではないでしょうか。

それが冨田さんに一生終えない傷を負わせた殺人未遂(たとえ未遂であるにせよ)に対する刑罰として、「懲役14年」は軽すぎる、という判決批判につながるのだと思います。

 

では懲役14年は軽いのか?

 

実際に起きた犯罪に対して科せられる刑罰が「軽いか重いか」を評価することは、非常に難しい問題です。

なぜなら、刑罰とはある程度の幅のある選択肢からそれぞれの犯罪に科せられる相対的なものであり、時代背景(過去に比べて重罰化傾向にあると言われます。)、判断する者(個々の裁判官によって考えは変わりますし、裁判員裁判になれば一般人の意見も取り入れられることになります)、報道のされ方などによって犯罪そのものに対する評価も大きく変わってくるからです。

 

被害者の立場に立ってみれば無期懲役、もっといえば死刑でもおかしくない、という気持ちになるでしょう(インターネットでも加害者を死刑にしろ、という過激な書き込みも目立ちました)。そこからすれば、懲役14年というのは軽い、という意見になるのも無理はありません。

 

そもそも、刑罰はなぜ科せられるのでしょうか?

 

そこには大きく分けて2つの考え方があります。

 

一つは応報刑。犯罪を犯した以上、それに応じた報いを受けるべきという考え方です。「目には目を、歯には歯を。」というハンムラビ法典が有名です。

もう一つは目的刑。刑罰とは、被害者の復讐(応報刑論)ではなく、社会において犯罪を抑止する目的から科せられる、という考え方です。この考え方はさらに、一般予防論(刑罰を科すことで国民一般に威嚇を与え、犯罪を予防する)と、特別予防論(犯罪者自身に刑罰を科すことで犯罪者を強制し、また犯罪者を社会から隔離することでその犯罪を抑止する)に分かれます。

現在の刑法学では、刑罰は以上の2つの役割を担っている、という見解が主流です。

 

そして、一般の方にとって馴染みが深いのは応報刑だと思います。特に日本人は勧善懲悪、因果応報といった考えが好きな人が多いように思います。

しかし、応報刑論を徹底すると、今回の冨田さんの事件だと、加害者自身をめった刺しにする刑罰を科すという刑罰にもつながりません。近代国家においてそのような刑罰を科すことは現実的ではありませんし、そのような刑罰は多くの国民にとって支持しがたいのではないでしょうか。だからといって重い懲役刑にすればよいというものでもありません。

 

一方の目的刑論ですが、犯罪に対して重い刑罰を科すことで犯罪が抑止される、という一般論はうなずくことができます。

しかし、現在の多くの国民は、「実際に起きた犯罪に対して科せられる刑罰が重かったからと言って、じゃあ自分は犯罪をしないでおこう」、という意識を常に抱いているかと言えば疑問です。凶悪犯罪を犯す犯罪者は、善良な市民である自分とは違う領域にいると考える人が多いと思います。むしろ、凶悪犯罪を犯す人は、刑罰を意に介さないからこそそのような犯罪を犯すことができるとも言えます。一方で、厳罰化が進む飲酒運転や交通事故においては、誰もが加害者(犯罪者)になり得ることから、ある程度の抑止効果は期待できるのでないかと思います。

特別予防論はわかりやすいです。加害者本人にきつい刑罰をくらわせれば二度と犯罪をしない、と反省する機会にもなりますし、加害者本人が刑務所の中にいれば、少なくとも社会において犯罪を犯す可能性はなくなります。しかし、特別予防論を徹底すると、危険な人間はより長く社会から隔離すべき、という結論にも結びつきかねない危険性も孕んでいます。

 

このように刑罰とは、応報刑論、目的刑論(一般予防論特別予防論)という2つの役割を持っています。

懲役14年という加害者に対する刑罰は、その役割を果たすことができているのでしょうか?

裁判官はオワコンか?

弁護士はオワコンである、というのが当ブログの基本的スタンスです。

もちろん異論はあるでしょうが、あくまで一弁護士として個人的な意見を述べているだけなので悪しからず。

 

では、弁護士と並んで法律職のひとつ、裁判官はオワコンなのでしょうか?

仕事内容、将来性、収入といった観点からみていきたいと思います。

 

まず、裁判官の仕事内容はまさしく裁判を進行させ、和解・判決といった形で裁判を終わらせていくことです。

ただ、裁判官の中には裁判所の人事といった裁判所行政に携わる人や、司法修習の教官についている人もいます。

また、東京・大阪といった大都市の裁判には知財部のような特殊な訴訟や大企業同士の裁判もあります。

もっとも裁判官のうち多くは交通事故、離婚といった似たような事件を担当しています。

この点では弁護士の扱っている仕事とたいして違いはありません(なお、弁護士には裁判以外に交渉等裁判外の業務が加わります)。

しかし、裁判官は裁判を進行させる仕事が主であり、そこに顕れる裁判資料には弁護士というフィルターが加わります。そのため、紛争を抱えた当事者の相手をしなくて済む、という点では弁護士の仕事よりも負担が少ないでしょう。弁護士の仕事の何がしんどいかといえば、常識のない依頼者や、自分の考えが正しいと信じ込みそれを弁護士に押し付けてくる依頼者の相手をすることなのです。

また、裁判官は紛争のどちらかの立場に立つわけではないため、自らの意見・信条に基づき判断できる点でも自由です。これが弁護士や検察官になれば、必ずどちらかの立場に立たねばならず、明らかに無理な依頼者の言い分を前提に仕事をしなければならなかったり、負けた場合に依頼者から責任追及をされるおそれもあります。

裁判官の抱えるストレスは、書類の提出期限を守らない、事件の筋を見通すことができない、といった徒らに裁判を泥沼化させる出来の悪い弁護士の存在が一定数いることが大きいといいます。

こういったストレスや、地方の裁判は似たような案件ばかりであり退屈である、という点を考えれば、裁判官の仕事もさして面白みがある、とは言えないでしょう。

もっとも、裁判官には定期的に転勤があるため、生活に張り合いは出てくるのではないでしょうか。転勤すれば抱えている面倒な案件からも解放されます。さらには、裁判官になって数年経てば他業種経験制度や留学制度があるので、この点でも裁判官は恵まれていると言えるでしょう。

 

次に、将来性について検討すると、そもそも公務員であるため、裁判官の仕事が将来なくなることはないでしょう。

また、司法制度改革によって司法試験合格者は大幅に増加しましたが、裁判官の採用人数はきちんと需要に見合った数に制限されているため、需給バランスに不均衡もありません。

そもそも、憲法身分保障がなされているので、よほどのことがなければクビになることもないのです。

従って、裁判官の仕事は将来性がないということはないでしょう。

むしろ、国際取引の増加等によって新たな裁判制度・紛争解決制度が生まれれば、そこに裁判官の仕事の幅が増えるかもしれません。

裁判官に就くことさえできれば、需給バランスが完全に崩壊した弁護士とは異なり安定した将来を歩めるでしょう。もちろん、日本の裁判所は官僚組織であるため、そこでの息苦しさや判決が全国民の批判に晒される、という意味では負担はあるでしょうが、裁判官の安定した将来性は何者にも勝るメリットといえるはないでしょうか。

 

最後に、裁判官の収入についてみていきます。

まず、裁判官の平均年収は928万円、とされています。ただし、年功序列で勤続年数・階級によって増加していくので、初年度の給与は22万7000円と弁護士に比べればかなり少ないのですが、そこから安定して昇給していきます。普通にいけば退職時には年収1500万円〜2000万円、退職金も5000万円を超えている人が多いようです。さらに国家公務員の扱いであるため、住宅補助といった福利厚生も最強でしょう。裁判官は夏季休暇といって、7月から9月までの間で2週間〜3週間の休みをとることができるのです。普通の企業はもちろん、公務員ですらそのように長い期間の休みをとることのできる仕事はないでしょう。

過去には裁判所の中にはテニスコートが設置されており、裁判官は休み時間にテニスを嗜んでいたこともあるのです。いまではそういった裁判所はほとんどないと思いますが。

 

以上、仕事内容、安定した将来性、公務員にしては恵まれた高収入・福利厚生を考えれば、裁判官はオワコンではありません。少なくとも業界全体が沈没している弁護士に比べれば。

 

しかし、裁判官になるのは司法試験合格者のうち一握りです。いつか裁判官になる方法も書いてみたいと思います。